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  天然那智黒石 猫印硯工房 


 (2010年8月29日 追加)




  『墨と硯と紙の話』   為近 磨巨登 著

           (2003年12月刊行  木耳社  2,625円 )


  
 「墨・硯・紙の本質に新しい視点から迫る。

   これまでの様々な説を電子顕微鏡を駆使して根底から覆し

   多数の電子顕微鏡写真でミクロの世界へ誘う。」(帯より引用)

  ※姉妹編 『写真で知る墨・硯・紙』 (2009年10月刊行 木耳社)




「那智黒石」という名は、書にあまり馴染みの無い方でも聞き覚えのある、

有名なものだと思います。 しかしながら、那智黒石製の硯となると、

とくに書の経験のある方々からは「硬すぎて墨が下りない」「おみやげ、

記念品としては良いけれど、実用的ではない」といった風な、あまり

良くない印象を持たれていることが多いようです。  日本各地の硯を

扱った書籍でも、しばしばそのような記述をされたり、ときにはほとんど

触れられていないこともあります。



かつて、那智黒石製の硯は、みやげ物として多くの需要があり、職人さん

たちが寝る間を削ってまで仕事をしていた時代がありました(大阪万博の

頃など)。

当時は見た目と数が重視されて、硯としての性能にはあまり注意が払われず、

墨が磨り難いほどツルツルに磨かれた硯が出回っていたのかも知れません。

その頃の評価が、現在でも残っているようです。



石質もさることながら、陸の磨き方、仕上げ方で、磨り心地は大いに変わり

ます。 現在は、当工房のみならず、ほかの業者さんたちも丁寧に仕上げを

しているものと思います。 私も自分で試し磨りをして、「十分磨れている

と思うけれど、人様の感覚とは違うのだろうか…でも十分書けると思うけど…」

と、しばしば自問自答しております。  お客様から、使い心地について

お褒めの言葉をいただくと、本当に安堵します。 けれども「いまひとつだな」

と感じられても、わざわざ言ってこられないお客様もおありだろうし、

お好みや、使い方、また使われる墨によってもいろいろ違うし…と考えると、

「自信を持ってお薦めいたします!」とまでは、なかなか申し上げられません。




これまでは「それならそれで仕方が無い」と考えておりました。 

最近は「言われるほど悪くないですよ、お試しいただけませんか」くらいの

ご案内は、したほうがいいのかな、と考えるようになりました。

そのひとつのきっかけとなりましたのが、ここで紹介させていただく本です。



『墨と硯と紙の話』では、写真や各種の実験結果など、興味深い資料を

提示した上で、これまで定説・常識とされてきた説は必ずしも正しく、

根拠のあるものではない、と説かれています。



硯に関係する記述を一部引用させていただきます。


・硯の硬さというものは、硯の性能には関係がなく、この位の硬度の石が

使われているというほどの意味しかない。もっと端的にいえば、生産者に

とっては大切なことであろうが、使用者にとっては何の意味もないもので

ある。(58ページ)


・ 「鋒鋩は細かく均一に、密立しているのがよい」といったのは、硯の本家で

ある中国の人ではなく、わが国の明治の文人達のようである。このような例は

墨の方にもあり、ほとんどの成書で「墨の粒子は小さいほうがよい。小さい

粒子は鋒鋩の細かい硯でないと作れない」と書かれている。いずれも想像で

言っていることなのに、読む人は真実のように受取ってしまう。(67ページ)


・ 鋒鋩はヤスリの目や大根おろしの目にたとえられることがある。

そのためかどうか知らないが、われわれは知らない間に、鋒鋩はおろし金の

目のようにポツンポツンと並んで立っているように思いこんでいる。

また鋒鋩は本来が きっさき という意味であるから、刀や槍の先のような

鋭いものが突っ立っているように思う人もいる。

しかしこの電子顕微鏡写真を見れば、そんな想像は全く見当外れであった

ことがわかる。 《写真の解説部分を省略》このように板状、紙片状、

塊状の微小石片が雑然と重なり合って形成されているのが、鋒鋩の実像である。

昔の人は鋒鋩の細かいのがよいといっていたが、実像も知らないまま想像で

いっていたにすぎない。 (68・69ページ)



他に、「墨の粒子(=煤やニカワ)の大きさのほうが、硯の鋒鋩に比べて、

もともと はるかに小さい。 だから、使う硯によって磨った墨の粒子の

大きさが変わるというものではない」などとも書かれています。 

砥石を使った陸の仕上げ方についても詳述されています。



一部だけを取り出しますと、極端な感じがしたり、真意が伝わりにくくなって

しまうかも知れません。 資料を参照しつつ、通して読むと、納得できる

部分は多いと思います。 

定説の全てを否定しているわけでもありません。



この本の中では、那智黒石そのものにはまったく触れられていません(各地の

硯について、実験・比較・等級付けなどをしている本ではありません)。

それでも、那智黒石で硯を作っている私にとりましては、間接的にでも、

これまでの悪評に疑念を示されるような、嬉しい記述がいくつもありました。

と同時に、私自身思い込みや受け売りで、このホームページやリーフレットに

不正確なことを書いていたと判明しました。 こっそり直しておきました。



この本に書かれた全ての説が科学的に実証されて正しいかというと、これまた

必ずしも そうではなく、異論もあるだろうな、と思われる部分もあります。

それも含めて、定説とされていることや人の話をただ鵜呑みにせず、いろいろ

試してみると、新たな発見があったり、不要なこだわりを捨てられるかも

知れません。

興味がおありの方は、ぜひご一読いただければと思います。




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